2012-09-14

幻惑の死と使途, 森博嗣

講談社文庫
2012-09-14 読了 (3回目?)

西之園萌絵が大活躍。相変わらずというか、事件に首を突っ込む度合いがさらにエスカレート(?)しているかもしれない。まあそうしないと小説としては面白くないだろうが。犀川だけが主たる登場人物だったら、そもそも事件にかかわらないだろうから、話が進まない。

犯人の家の場所はどうやって知ったのか、良く分からなかった。

犀川のセリフ(森博嗣の考え?)に大きく頷く。
テレビのディレクタが押し付ける感動なんてまっぴらだよ。オリンピックだって、テレビの台本じゃないか。原発反対も、博覧会反対も報道されるのに、オリンピック反対が何故もっと大きく報道されない? 高校野球はどうしてあんなに美化される? マスコミはマスコミを何故攻撃しない? 浜中君。もし君が偏った価値観から自分を守りたかったら、自分の目と耳を頼りにすることだね。テレビを捨ててしまえば、君の目は、少なくとも今よりは正しく、しかも多くのものを見ることになるよ

牧野洋子と西之園萌絵の、ホームページ、インターネットに関する会話の先見性に驚く(この作品のノベルズ版が出版されたのは1997年10月)。
「このまま、日本中の人がホームページを開設したりなんかしたら、もう情報が多過ぎて、結局は役に立たなくなっちゃうんじゃないかしら」
「たぶん、そうなるわ」萌絵は言う。「今みたいに一部の人がやっている間は価値があるけれど。だんだん、自分の日記とか、独り言みたいなことまで全部公開されて、つまり、みんながおしゃべり状態で、聴き手がいなくなっちゃうんだよね。価値のある情報より、おしゃべりさんの情報の方が優先されるんだから、しかたがないわ。でも、それはそれで、価値はないんだって初めから割り切れば、面白いんじゃないかしら。そんな気もする」
「カラオケみたいなもんね」洋子は頷いた。

考えてみると、インターネットがそれほど普及していなかった時代には、マスメディアが「おしゃべり状態」を独占していたが(それは「公共の電波」を使う上では今でも同じだが)、インターネットでは一般の人も「おしゃべり状態」に参加できるようになった、ということか。

引田天功(2代目)a.k.a PRINCESS TENKO が解説を書いている。

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